| j-top >> featured >> KNAC interview with Robbin Crosby (2001) part 3 | |
| Last update: Jun. 3, 2005 | |
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July 16, 2001 / KNAC.COM interviewed by : Mitch Lafon / © Mitch Lafon all rights reserved **このインタビューは2001年の5月に行われたものです** |
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part 3
Detonatorは、俺にはRATTのアルバムとは思えない。(レコーディングのとき)俺は30日も入院してて、このアルバムに関しては殆ど何も出来なかったんで、それで反感を抱いてしまったからかも知れないが。 (このアルバムのときに)バンドは新しいマネージャーの、Left Bank ManagementのAlan Kovacと行動を共にすることになった。彼は当初俺達のキャリアを救おうと努めたが、最終的には俺達に干渉してぶちこわしただけだった。Kovacだったんだ、(RATTのレコーディングに)Desmond Childを関わらせたのは。「Bon JoviやAerosmithに 関して彼が成し遂げたことを見てみろよ!」ってなことでね。だが、(彼が関わったアルバムの)全てを終えたあとのBon JoviにでもAerosmithにでも聞いてみろよ。彼等は言うよ、「勘弁してくれよ、あれは悪夢さ!あちこち口を出されたうえに、パブリッシングの 30%を請求してきたんだぜ!」ってね。DesmondがRATTに対してやったのはそれだったんだ。 俺はDetonator用に演奏したよ。俺がリハビリを終えて退院したあとに聴いてもらえるって約束でね。だが、退院する頃には「あぁ、もう(アルバムに入れる)曲 はほとんど出来上がったよ」という話になっていて、"Can't Wait On Love"はアルバムに入れてもらえることになったが、それで殆どおしまいだった。本当にひどく傷ついたよ。そしてもっと俺の気持ちを傷つけたのは…俺が 病院でリハビリしている間、誰ひとりとして見舞いに来てくれなかったことだった。誰も。俺がいた病院は、彼等それぞれの家の間だったのにね。 そんなわけで、Detonatorに関してはアルバムもツアーも最悪だったよ!俺は音楽に集中できなかった。Desmondとも相性は悪かったし ね。ツアーのための練習さえもしなかった。俺達の曲とは思えなかったし、実際俺達の曲のようにも聴こえなかったし。DesmondとDiane Warrenが、つまらない歌詞を載せたりして、全ての曲に関わってたからな。お陰で俺はすっかり引いてしまった。あんなのハード・ロックじゃないよ。まるっきりポップ・アルバムだ。SoundgardenやPearl Jamといった新しいバンドがよりHeavyな曲を出し、Metallicaが日に日にビッグになってた時だぜ。俺は自分達が今までやってきたものより更にHeavyなロックをやりたいと思ってたんだ。俺はこう言いたかった「おい、こんなDesmond作品集みたいなアルバムは放っといて、もっとHardなやつをやろうぜ。(1983年に出した)EPこそがRATTサウンドじゃないか」 EPの音こそが俺にとっての本当のRATTだ。切れのいい曲ばかりで、生々しくてさ。あのEPレコードはこのうえなく生き生きしてて、しかも本当に バンドらしかった。あれの後に出したアルバムはどれも、より豪華でより金がかかってる、ってだけさ。俺に言わせればこうだ。もしRATTが聴きたいと思う なら、あのEPを買え。そしてあの6曲を聴いてくれ。 Detonatorの話に戻ろう…俺達はあのアルバムを引っさげてヨーロッパツアーをした。その後の日本ツアーでの有様はひどかったよ。バンドはみ んなして口論したり喧嘩したりだし、俺は酒をあおりっ放し。ドラッグを身体から追い出そうとしてたんだけどね。誰も何の感慨も持たず、ただ目の前にある仕 事をこなして日々を送るだけだった。最低だった。そして日本ツアーのあと、全てが終わった。
彼等はPeace/Loveマークをギターいっぱいにペイントした若造を連れてきて、ツアーを始めた。そいつが俺の後釜になるんだろうかとその時は思った。その編成でバンドはいくつかショウをこなした。その後Micheal Schenkerを入れて、ツアーは続いた。それはKovacがミュージシャンを集めたバンド(Contrabandのこと)がRATTのオープニングを務めた時だ。Schenkerが弾き始めたのは俺のパートだった。1991年のことだった。 それについて彼等は何ら公の声明は出さなかったから、(当時は)俺も黙っていた。が、全て俺のせいでそういうこと(バンド内が混乱した状態)になり、それでバンド側が俺をクビにした、という話は、現在Juanが否定してくれている。 "81-91"(RATTのベスト・アルバム)が出るとき、Kovacは俺に脱退を勧め、今ま でのRATTでの活動で得てきたよりも更に大きな額の金を稼がせてやる、と言って来た。彼は俺を凄腕のプロデューサーとして売り込み、そしてプロデュース するバンド全てに俺を関わらせようと計画してたんだ。それならバンドを辞めても大丈夫だと俺は思った。先の日本ツアーで最悪な時間を過ごしてから、俺は ずっと「ふざけんな!最低だ!」と思っていたから、もうこれ以上そんな状態で日々を送るのは嫌だったんだ。 そして俺はとあるバンドのレコーディングを始めた。俺はずっと思っていた…いや、今でも思っている。Soundgardenやそういったバンドが出 てきている時代に、自分(とそのバンド)がやってきたことは正しかったし、やるべきことをやっていた、と。そのバンドはMail Order Bridesという名前だった。本当にいいバンドだったし、彼等の音楽は先端を行っていた。 マネージャーは俺に、どんどんやってくれ、もうレコーディングに入ってもいい、デモ作りの予算として6000ドルあげるからと言った。それで俺は (当座は)自分のポケットマネーから出して、デモを録る前の段階のテープを作ったんだが、しかしマネージャーが金をくれることはなかった。1セントもね。 これがRATTとマネージメント双方に対する憎悪の始まりだった。俺は奴(マネージャー)を泥棒だと言ったが、バンドはマネージャーの味方をした。 マネージャーとは家族ぐるみの付き合いをしてたんだよ。俺とLaurieはよく彼ら夫婦と一緒にディナーに行ったものだった。それまで元マネー ジャーのMarshall BerleやRATTのツアー・マネージャーとそうしてたようにね。俺はスタッフと友達関係を築いたよ。何もしないでRATTのメンバーに対する不平不満 をぶつぶつ言うのみ、なんて状況を避けるためにさ。そういった俺の行為について言えば、俺は悪い奴だったな。裏切り者だったわけで。でも、それは心の平静 を保つためだったんだ。ひいてはバンドのためにもなると思ってやったことだったんだよ。 俺は心からRATTが好きだった。俺にとって、それまでやりたかったことを全て実現してくれて、また俺自身もそうなるよう努力した宝物だった。ロック以外の俺の夢といえば「世界を見ること」で、金を儲けたいなんて夢は別に持ってなかったよ。だから…両方(儲けることとロックすること)をすることになった時点で、それは(夢見ていたものとは)別の何かになっていたんだろうな。 GO TO part 4... |
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Japanese Translation By: Nao Copyright © 2001- Nao / The RATT GANG.com. All rights Reserved. No reproduction or republication allowed without written permission. 日本語訳は全てNaoによるもので、訳文に関してはいかなる権利も放棄しておりません。無断転載不可 |
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